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大野城心のふるさと館 Onojo Cocoro-no-furusato-kan City Museum

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大野城跡

更新日:2023年09月14日

大野城跡(おおのじょうあと)

概略

 日本書紀に『天智四年 達率答㶱春初を遣はして、城を長門国に築かしむ。達率憶礼福留、達率四比福夫を筑紫国に遣はして、大野及び椽の二城を築かしむ。』とあります。
 その意味は「達率答本春初を派遣して、城を長門の国(現在の山口県西部)に築かせた。達率憶礼福留と達率四比福夫を筑紫の国に派遣して、大野と椽の二つの城を築かせた。」となります。

 大野城跡は四王寺山(しおうじやま)とも呼ばれます。大城山(おおきやま)が正式名称ですが、奈良時代(774年)に持国天(じこくてん)・増長天(ぞうちょうてん)・広目天(こうもくてん)・多聞天(たもんてん)(=毘沙門天:びしゃもんてん)の四天王を祀った四王寺(四天王寺:してんのうじ)が建てられたため、四王寺山と呼ばれるようになりました。

  • 大野城跡_空撮01
  • 大野城マップ_画像

大野城築造の歴史的背景

 大野城は、福岡県大野城市、太宰府市、糟屋郡宇美町にまたがって所在していますが、『日本書紀』の記述から天智四年(六六五年) に造られたことがわかる古代の山城です。

 七世紀中頃の朝鮮半島には高句麗、百済、新羅の三国がありましたが、新羅が中国大陸にあった唐と連携して他の二国を滅ぼそうとします。日本(倭) は百済に援軍を送りますが、天智二年(六六三年)に白村江で唐の水軍に大敗を喫します。

唐・新羅からの侵攻を恐れた日本は、国士防衛のため、まず福岡平野の最も狭い部分に土塁と濠からなる水城を造りました(六六四年)。さらに亡命百済貴族の指導のもとに対馬の金田城や福岡佐賀県境にある基肄城など、九州から近畿地方まで瀬戸内海沿いに点々と山城を造りました。それらが今も残る朝鮮式山城です。

 このような歴史的背景の下に造られた大野城跡はその重要性から水城跡とともに国の特別史跡に指定されています。

  • 大野城跡_大野城と関連遺跡
    大野城と関連遺跡
    (阿部義平1991 「日本列島における都城形成」『国立歴史民俗博物館研究報告』第36集より改変)
  • 百済 扶蘇山城と泗沘の羅城
    百済 扶蘇山城と泗沘の羅城
    (朴淳發2000「百済泗沘都城の羅城構造について」
    『古文化談叢』第45集より改変。
    扶蘇山城は大野城のモデルと考えられている山城)

白村江の戦い

白村江とは朝鮮半島の地名です。

7世紀初めから半ばにかけて、朝鮮半島では高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)の3つの国がありました。また、中国を統一した唐(とう)は朝鮮半島にまで支配の手を延ばそうとしていました。朝鮮半島を中心とする東アジアは一触即発(いっしょくそくはつ)の状態にあり、海を隔てた倭(わ:日本)=大和朝廷(やまとちょうてい)もこの緊張関係と無関係ではありませんでした。

660年、唐は新羅と手を結び、百済に攻め入りました。同年7月、百済王は捕らえられ百済は滅び、百済の遺臣(いしん)は倭に百済の滅亡を伝えるとともに、救援軍(きゅうえんぐん)の派遣を要請してきました。

百済への派兵は2回行なわれました。1次軍は661年に海を渡りましたが、大きな戦果は得られませんでした。2次軍は663年の2万7千人から成る大部隊で、兵士の動員は西日本だけでなく、東日本にも及び、国家的な戦時体制が敷かれました。

百済救援軍(2次軍)は8月、錦江(きんこう)河口の白村江で、唐・新羅の連合軍と衝突します。戦闘は4度にわたり繰り返され、この戦いで倭の水軍は大敗北をしてしまいました。これが白村江の戦いです。

また、660年に滅んだ百済の遺臣は倭(わ)に滅亡を伝えるとともに、救援軍の派遣を要請してきました。これに応じたのが斉明(さいめい)天皇でした。斉明天皇は皇太子である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)らを率いて飛鳥(あすか)を立ち、翌年の661年3月に娜大津(なのおおつ:那津〈なのつ:現在の博多港〉)に着きました。途中、兵士・武器・食糧を調達しています。

岩波書店より斉明天皇の足跡(『日本書紀』岩波書店より斉明天皇の足跡をたどってみました。)

天皇は宮(難波宮:なにわのみや)を出発し、磐瀬行宮(いわせのかりみや)を経て朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなひろにわのみや:現在の朝倉郡朝倉町内)に遷り、指揮をとりました。朝倉の地を選んだ理由としては、豊後国へ抜ける道に面しており、水路により有明海に通じる筑後川が流れ、最悪の事態には速やかに畿内に撤退が可能なことがあげられます。筑後平野東端部の地に大本営としての宮を築いたのでしょう。しかし、その年の7月に斉明天皇は亡くなり、中大兄皇子が後を継ぎました。

その後663年には白村江の戦いで大敗し、大和朝廷が築いた防衛施設の一つが大野城となります。

大野城跡_02

大野城跡

大野城は水城が築かれた翌年に造られました。また、その2年後の667年には倭国(やまとのくに:現在の奈良県)に高安城(たかやすのき)、讃吉国(さぬきのくに:現在の香川県)山田郡に屋嶋城(やしまのき)、対馬国(つしまのくに)に金田城(かねだのき)を築きました。

これらの山城は朝鮮半島に面した玄海灘(げんかいなだ)沿岸地域、有明海から上陸した敵に備えた地域、また、大和朝廷の中心地である畿内(きない)への海上ルートである瀬戸内海に面した場所に築かれています。

大野城跡_04

 

『日本書紀』・『続日本紀』の記述

天智二年秋八月(六六三年)
・・・大唐(もろこし)の軍(いくさ)の将(きみ)、戦船(いくさぶね)一百七十艘(そう)を率(い)て、白村江(はくすきのえ)に陣烈(つらな)れり。・・・日本(やまと)の船師(ふないくさ)の初(ま)づ至れる者と大唐の船師(ふないくさ)と合戦(あいたたか)ふ。日本(やまと)不利(ま)けて退く。・・・

 天智三年(六六四年)
是年(このとし)に、対馬島(つしま)・壱岐島(いきのしま)・筑紫国等(つくしのくにら)に、防(さきもり)と烽(とぶひ)とを置く。又、筑紫(つくし)に、大堤(おおつつみ)を築(つ)き水を貯へ、名(なづ)けて水城(みづき)という。

 天智四年秋八月(六六五年)
達率答㶱春初(だちそちとうほんしゅんそ)を遣(つかわ)して、城(き)を長門国(ながとのくに)に築(つ)かしむ。達率憶礼福留(だちそちおくらいふくる)・達率四比福夫(だちそちしひふくぶ)を筑紫国(つくしのくに)に遣(つかわ)して、大野(おおの)と椽(き)、二城(ふたつのき)を築(つ)かしむ。

 天智六年(六六七年)
 三月
都を近江(おうみ)に遷(うつ)す。
 十一月
倭国(やまとのくに)の高安城(たかやすのき)、讃吉国山田郡(さぬきのくにやまだのこおり)の屋島城(やしまのき)、対馬国(つしまのくに)の金田城(かなだのき)を築(つ)く。

 文武二年(六九八年)
大宰府(だざいふ)をして、大野(おおの)、基肄(きい)、鞠智(きくち)の三城を修治せしむ。