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大野ジョーと行く!古代山城大野城 (9)

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大野城跡1350年

いまもかも 大城の山にほととぎす なきとよむらむ 吾なけれども 坂上郎女(さかのうえのいらつめ)『万葉集』 巻8大野ジョーくんの写真(調査はこれからも続くじょー)奈良時代、大宰府政庁の後ろに ある大野山(大城山)に大野城があることが知られていました。
774年には、四王院が置かれ、さまざまな文献にその活動が記されていますが、大野城の中にあった建物や城門の様子を伝える記録はありません。大野城が城跡として認識 され、具体的な建物や城門の姿が明らかになってくるのは江戸時代以降のことです。
江戸時代中ごろの『筑前国続風土記』や『筑前国続風土記附録』では、礎石や井戸といった遺構が、大野城跡に関するものか四王寺に関するものかよく分かっていなかった ようです。
ところが、『太宰府旧蹟全図北』には、大野城跡・基肄城跡が絵図として詳しく描かれており、石垣や門跡などの場所や規模がよく分かります。
また、江戸時代の終わりごろから明治時代には、大城山が四王寺山と呼ばれるようになった由来が明らかにされ、大野城跡と四王寺の関係について理解が深まっていきます 。さらに、このころになると、大野城跡に残る石垣などの遺構に目が向けられるようになりました。
大正時代に入ると、大野城跡の現地踏査に基づく城壁や門の調査が島田寅次郎氏、長沼賢海氏により行われます。
さらに、昭和の初めには、鏡山猛氏により土塁や百間石垣・小石垣などが実測され、具体的な構造を明らかにし、それ以降の調査研究に対する基礎となりました。
このように、江戸・明治時代にわたって続いていた大野城跡に対する興味は、城としての全体的な把握へと進んでいきました。さらに、石垣や城門などの調査・研究が進み 、大野城跡の姿が徐々に明らかにされてきています。


大野城は古代に造られた山城です。城というと大阪城のような巨大な天守閣や石垣をイメージされるかもしれませんが、古代の山城は山を鉢巻状(すりばちじょう) に土塁や石垣で取り囲み、内部に建物を配置する構造であるために、後世の人が山城を見上げてもただの山にしか見えません。
しかし、歩いてみるとそこには建物や井戸や 石垣など、確かに古代の城の遺構が残されています。国家の危機に直面した古代の人が、持てる技術を結集して作り上げた堅固な城です。
ぜひ一度現地へお越しになり、大野城の巨大さと古代の技術のすばらしさと自然の豊かさを体験してみてはいかがでしょうか。
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